山形県の古墳
 (村山・置賜地域) 
(山形県)

1.村山 2.置賜
2.置賜地域
 
稲荷森古墳 (いなりもりこふん)  南陽市長岡 
前方後円墳。墳長96m、後円径62m・高9.6m、頂径24.4m、前方幅30m・長32m・高4.1m、くびれ幅25m。後円部3段、前方部1段、埴輪・葺石なし。後円部東北墳麓から底部穿孔土師器壺(塩釜式並行)が出土。高杯型土器も旧墳丘から出土した。4世紀後葉の築造とされ、宝領塚(米沢市)・天神森(河西町)(いずれも前方後方墳)が先行し、大塚天神古墳(山辺町・円墳)との中間時期の築造とされている。宮城の遠見塚古墳と同時期と推定される。平成元年~4年に整備した。修復は保存状態が良かったために部分的だった。県内最大(東北6位)の前方後円墳。

     東側から
 (右・後円部に比べ左・前方部は低い。後円部は3段構成)

西側から見た稲荷森古墳。平野の中に突然あるようだが、独立した長岡山丘陵の南西端に相当し、丘陵の南西岡尾を切断して墳麓を削り出し、地山を一段目としたらしい(前方後円墳集成から)。 未調査の古墳が近くにあるという。
  
     古墳公園になっていて、説明板が完備している。
    赤湯温泉に近く、景色も良い。親子連れで見学に来ていた。

後述する高畠町のうきたむ風土記の丘考古資料館の”第13回企画展・古墳ができたころ(平成17年)”の展示図録によると、会津の杵ケ森古墳・堂ケ作山古墳(いづれも前方後円墳)が先行し、会津の大塚山古墳(前方後円墳)と同時期に置賜の宝領塚古墳・天神森古墳が築造されたとする。置賜では大首長の出現が会津より遅いという。前方後円墳である稲荷森古墳は、宮城の遠見塚古墳とほぼ同時期で、会津から北に大和(倭)王権の威光が伝達したと推測されている
墳頂には方位板があり、
附近の山々との位置関係などが分かる。
後円部より前方部を見る
前方部を正面から見る。 部分的に2段になっている。 三段構成の後方部を真後から見る。

くびれ部(西側)
    
丘陵地帯の端部に多くの古墳群があるが、稲荷森古墳は独立丘陵を利用して営まれ孤高に坐す。周囲の古墳群は古墳時代後期・終末期のものが多いが、蒲生田山古墳群には前期(4世紀)の小規模な前方後方墳(全長30m内)が混じっているらしい。経塚山古墳群にも前期の小規模古墳が混じっているようだ。

うきたむ風土記の丘   
東置賜郡高畠町大字安久津2117
「うきたむ」とは、置賜地方の古名「優嗜曇」である。飛鳥時代に相当する7世紀中~後葉に陸奥国優嗜曇評、優嗜曇柵が設置され、7世紀末~8世紀初頭に優嗜曇郡となる。奈良時代(8世紀前葉~中葉)には、712年出羽建国に伴い置賜郡として、出羽国に編入した。「ウキタム」とは、アイヌ語の「芦や葭の生い茂る流動する大きな湿地(谷地)」という意味に相当する。(考古資料館「出羽国ができるころ」 2008.10)
左から県立うきたむ風土記の丘考古資料館、安久津古墳、安久津八幡神社、高畠町郷土資料館
     高畠町郷土資料館  東置賜郡高畠町大字安久津2011
昭和54年に開館した郷土の歴史を伝える資料館。白竜湖と屋代川と十分一山に囲まれる地域は、泥炭で覆われた広大な低湿地が広がっている。東の丘陵は柔らかい凝灰岩でできており、洞窟や岩陰があり、旧石器時代より人が住み着いた。低湿地条件は、漆器・木器やさまざまな動物や人骨を残す貴重な遺跡となっている。昭和30年代に積極的な調査・発掘が進み、日向洞窟からは縄文草創期の土器が発見された。高畠町はこのような洞窟・岩陰遺跡の宝庫である。県立うきたむ風土記の丘考古館が置賜地方の考古資料を展示するのに対して、郷土資料館は旧石器から現代までの高畠町の郷土史を伝える。

日向洞窟出土の
縄文時代草創期<約13,000年前)の土器

加茂山洞窟古墳出土品 鉄製大刀、耳環、勾玉など
安久津古墳群 (うきたむ風土記の丘)
安久津古墳群は、うきたむ風土記の丘の背後の山の南面に小円墳が密集する群集墓で、古墳時代後期(6~7世紀)のもの。羽山古墳から東へ、北目支群、原福寺支群、加茂山洞窟古墳、味曽根支群、鳥居支群を経て安久津八幡神社に至る。現在、古墳は35基残っている。
風土器の丘に 安久津古墳1号墳(左後)と
2号墳(右前)がある。
2号墳には石室が開いている。

安久津2号墳の発掘調査写真


 安久津1号墳出土品:三累環(さんるいかん)大刀の柄頭・鞘尻(7世紀)



うきたむ風土記の丘考古資料館

常設展示は、古墳時代までの置賜地方の遺跡出土品が実物展示されている。押出遺跡の出土品(彩漆土器、様々な木製品、クリ、クルミなど食料品)が興味深い。

第16回企画展「出羽国ができるころ(2008.10/1~11/30)」に写真出展であるが、白鷹町・円福寺の飛鳥仏(銅造観音菩薩立像)が出展されていた。
持統3年(689)に、陸奥国優嗜曇郡(うきたむぐん)の蝦夷僧に金銅薬師像・観世音菩薩像と仏具を下賜した。城養蝦夷(きこうえみし)の脂利古(しりこ)の男、麻呂と鉄折(かなおり)が僧になることを許された記事とともに、この地方に仏教普及が急なことを物語る。この飛鳥仏が持統天皇より下賜されたものである可能性が高い。

愛宕山古墳(高畠町)から出土した蕨手刀。蕨手刀は東北北部(岩手・青森)の蝦夷塚の出土品としてよく見かける。蝦夷(縄文の血を引く原住民)が好んで手にしたようだが、出自は北関東(群馬・長野)で、畿内に持ち込まれ東山道経由で東北に持ち込まれたとする説がある。。飛鳥・奈良時代の蕨手刀の製刀場所が何処なのかは興味深い。
羽山古墳 (はやまこふん)  東置賜郡高畠町高畠
6~7世紀に造られた安久津古墳群(群集墓)の一つ。石室が残る。勾玉など玉類が多数出土した。
石室の正面 約1m×1mの石室入口は南面している。 山(丘)の中腹に約35基の古墳が連なる。
石室内部を見る。 羽山古墳では、玉類(勾玉、管玉、切子、白玉、小玉)650点、金環(青銅の鍍金)19ケが出土した。風土記の丘考古館と郷土資料館に展示されている。(写真は考古館のもの)

宝領塚古墳 (ほうりょうづかこふん) 米沢市窪田町北宝領
前方後方墳。推定墳長約70m、後方辺41.9×40,5m・高4.8m、頂辺16.1×17.0m、前方長現存約18m、くびれ幅15m。前方1段(?)、後方2段?、周濠不明、周庭あり。土師器甕形土器胴部片出土。(「前方後円墳集成より)

赤湯から国道13号を米沢方面に約15km、米沢市窪田町交差点(信号)を右折、やや行くと米沢南陽自動車道を横切り側道を右方向に行くと、左手の田圃の中に森が見え、宝領塚古墳の説明看板がある。

のように歩いて、墳丘を確認した。(近藤義郎編「前方後円墳集成(1994)」掲載図上に撮影地点をアルファベットで示した) 
宝領塚古墳の説明看板は、米沢南陽道路の側道にある。 A 南東から田圃の中の道を入る。後方部には神社がある。
B 鳥居の際から 神社にスズメ蜂発生でこれより先近づけなかった。。 C 前方部正面に相当する。
D 右側が前方部の残骸。 E 神社を裏側から見る

川西町埋蔵文化財資料展示館


東置賜郡川西町大字上小松813-1
ごく控え目な建物で探しづらかったが、ここに行かなくては始まらない。
館内には、奈良時代の置賜郡衛跡とされる道伝遺跡からの出土品(木製品が遺っている)や古墳時代前期の治平衛館遺跡・住居跡からの出土品などが展示されている。川西町の遺跡情報が得られる。
羽前小松駅の東側すぐに天神森古墳、その先体育館の隣に埋蔵文化財資料展示館がある。道を尋ねると、皆さん樽平酒造を目安として、教えてくれる。高畠からの道が線路を越えて突き当たる正面が樽平酒造である。
(川西町埋蔵文化財資料展示館で貰った「下小松古墳群マップ」に加筆)
館内 左端に天神森古墳の展示が見える。 下小松古墳群・小森山支群M61号墳大号棺より出土した直刀
 現存長105.1cm
下小松古墳群M61号墳の調査風景の写真展示 下小松古墳群・薬師沢支群第143(Y-43)号墳(径13.5mの円墳)は、墳頂の主体部は3段の墓壙を持つ割竹形木棺の直葬で、銅鏡、鉄鏃、刀子、鋤先、竪櫛が出土した。5世紀後半の築造とされる。
天神森古墳 (てんじんもりこふん)  東置賜郡川西町大字上小松8113-1
前方後方墳。前方部1段・後方部2段? 総長75.6m、墳長73.5m、後方辺48×42m・高4.3m、頂辺36.5×33.9m、前方幅32.0m・長32.5m・高3.0m、くびれ幅16.0m、埴輪なし、葺石なし。北部くびれ部から底部穿孔土師器壺(塩釜式並行)が出土。内部主体は、後方墳頂の主軸線上に沿っての割竹形木棺で、粘土槨があったとされる。
羽前小松駅の東側の道に古墳入口がある。 説明板は完備している。
A:前方から見る。 天神森古墳 (「前方後円墳集成」掲載図上に撮影位置を示す。)
B:前方部の前面 C:くびれ部辺りから後方部を見る。
D:後方部墳頂 片隅に神社がある。 E:墳頂は広い。
F:後方部を真後ろから G:後方より南側の古墳全体の縁

下小松古墳群 (しもこまつこふんぐん) 小森山支群
国指定史跡  東置賜郡川西町大字下小松 

下小松古墳群マップ(川西町教育委員会)に加筆 
下小松古墳群は、北から薬師沢・鷹待場・小森山の三支群に分けられている。薬師沢支群は総数53基(うち円墳が50基)で、第143号墳では埋葬主体が確認され、銅鏡(径4.9cmの鋸歯文鏡)、鉄剣、鉄鏃、鉄製鋤先などの出土があった(川西町埋蔵文化財資料展示館に展示)。鷹待場支群は総数33基で、円墳と方墳が大部分を占める。第106号墳(長径24m)は円(方?)墳で、埋葬主体が確認され、鉄刀、竪櫛、ガラス小玉が出土した。
小森山支群は、総数83基、うち16基が小規模な前方後円墳である。第40号墳・第61号墳・第98号墳の三基については埋葬主体の発掘調査が行われ、副葬品として第40号墳からは鉄刀や刀子、第61号墳からは鉄刀や鉄鏃、第98号墳からは漆塗りの靫などが出土した。
調査した古墳はいずれも木棺を主体としている。古墳群の築造年代は4世紀末から6世紀末にかけてのものと考えられるが、現在も調査は継続中である。
(山形県環境保護課の説明板より)

川西町埋蔵文化財資料展示館で、現場への道順と古墳廻りのガイドマップ”下小松古墳マップ”が貰えた。これがなくては、理解に苦しむ古墳群の現場である。

薬師沢支群の北に、永松寺支群、陣ケ峰支群がある。陣ケ峰支群には、墳長18mの前方後方墳(後方部辺長12m)と12m前後の辺の方墳があり、高さは低いが方形周溝墓よりひとまわり大な墳墓で、4世紀でも古い時代の築造とされている。この種の古墳が下小松古墳群には未調査で眠っているらしい。(山形県うきたむ風土記の丘考古資料館「第13回企画展・古墳ができたころ展示図録」より)
 
下小松古墳群への入口標識 駐車場の後方に小森山支群のある眺山丘陵
2つの埋葬主体部を持ち大刀などを出土したK68号墳(旧40)を経て、前方後円墳・方墳・円墳が群がる中を奥へ進む。
十字路に出る。
分かりにくい古墳群の中だが、親切な標識がある。
K36号墳(旧61) 1985年に下小松で初めて調査された。河西町埋蔵文化財資料展示館に発掘調査の写真があった。
K50号墳 群中最大の前方後円墳(全長33.8m) 円墳群の中をK21号墳を経由してK7号墳に向かう。
K9号墳からK7号墳へ下る。K7号は県内唯一の靫が出土した。 K7号墳の墳頂から、米沢盆地が一望できる。

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